人気のない山道に二つの影。
後を追うは男。その衣服からはあまりピンとこないがどうやら修験者のようだ。
手には扇子、体力がないのか息も絶え絶えに、しかし逃すものかと必死に駆けている。
先を行くは赤い着物に高下駄の女。しかしながらこの女、人ではないようだ。
白く色の抜けた髪を肩先で揺らし、けらけらと笑いながら山の奥へ、奥へと向かっていく。
上質の毛布を思わせる白い尾が、ふわりと後を追っていた。

「ほぉらほら!早くしないと逃げきっちまうよー!」
「ま、待てっ!待たないか化け狐ーーっ!」
「あっははははは、捕まえたけりゃ追い付いてみなァ!」

それは児戯に等しく、されど値千金の賭け事。
修験の道を歩む男と、一匹の狐娘が繰り広げる、他愛のない遊び。
























一体いつからだろうか。この奇妙な鬼ごっこが始まったのは。
ある日、その狐娘は山姥と対峙していた。
女の名は、父は純然たるアヤカシ化け狐だが母は人間――それも退魔師の家系に生まれた娘であったがため、生まれながらに同属、もしくは似て非なる存在たる物の怪を祓うのを義務付けられた存在であった。
この日も山から奇妙な「氣」を感じ、山に巣食う物の怪――山姥を発見した彼女はいつも通りに物の怪を祓い、それでさっさと立ち去るつもりだった。
が、
偶然にもその光景を通りすがりの修験者、柳幻殃斉に見られてしまう。
傍から見れば異形の娘がみすぼらしい格好の婆さんをいたぶっているようにしか見えない。それどころかその婆さんを倒して「なんだぃ、しけてるねぇ」なんぞ呟く娘の方を悪と思うのは致し方がないかもしれない。
人として、修験者として、幻殃斉は立ちあがった。

『そこの娘ぇ!今、そこの婆さんに何をした!』
『んぁ?なんだい、同業者かい?悪いがここの物の怪はとっくにあたしが払っちまったさ』
『何処から如何見ても身共には貴様がそこの婆さんを追い剥ぎしたようにしか見えぬわ!』

冷静に後からやって来た男を分析するに対し、声を荒げ、張り上げる幻殃斉。
彼女の「同業者」という言葉も聞かずに自らの目で見、耳で聞いた見解のみで彼女を疑うその姿は、の目からすれば哀れであり、滑稽でもあった。
故に、彼女は言う。

『ほぉ……そんじゃ、あたしを退治でもするかぃ?あたしはこう見えて結構強ぉいよ』
『い、いい、い、いいだろう!この柳幻殃斉の呪法にて物の怪ぇ!貴様を祓ってくれようぞ!!』

彼女の発言に言葉を詰まらせながらも、幻殃斉はびしりと扇子でを指す。
自分に怯えているのか、それとも気圧されてるのか……どちらにせよすでにこの時点で勝敗など決まっているのだが、ただこのまま終わらせるには惜しいと、そうは思った。

『おうともさ、ただしあたしに追いつけたらね?』
『……へ?』

ぼう、との掌、そこを中心に輪のように鬼火が現れた。
仮にも半分はアヤカシ、多少なれば妖術の類は使えた。父から鬼火の扱いを学んでいたし、鬼火の中にも自分を好いてくれてるもの、慕ってくれているものがいることを彼女は知っていた。
故に、呼ぶも易し。
幻殃斉に当たらずとも、目を眩ませるくらいの場所に鬼火を投げると、鬼火は強く輝き、爆ぜる。
その一瞬の隙を突かれ、幻殃斉はいとも簡単に彼女を逃してしまったのであった。
こうして、今現在に至るまでの長い間、二人の鬼ごっこは続いている。
は以来退魔師の仕事をこなしながらも、幻殃斉の姿を見かければからかっている。
ちらりと自分の姿を見せ、相手が気が付いたらそれが始まり。
野なり山なり、町なり村なり、人がいようがいまいが関係なく、ただ追い追われ。
届きそうで届かない、そんな距離を保ちつつは幻殃斉を翻弄する。
最後は何時も夕暮れ。日が沈めばそこは人在らざる者の領分が広がり、物の怪が彼を襲うことだってある。ついでに言うならば宿を探すも人を探すも苦労するであろうとが勝手に決め付けた終わりだった。今日もまた、遠く西の山間に沈むそれを横目に幻殃斉と別れを告げようとしていた。
跳躍一つで遥か頭上、ちょうどよく生えていた木の枝に立つと、笑いながら幻殃斉に声をかける。

「相変わらず息が切れるのが早いねェ、幻ちゃん」
「げ、幻ちゃんなぞと馴れ馴れしく呼ぶな物の怪め!」
「やだねぇ、あたしと幻ちゃんの仲ぢゃないか。これでも結構好きなんだよ、幻ちゃんのこと」
「や、や、や、喧しい!!そ、そのような戯言を軽々しく吐くな!」

木の上でけらけらと笑うに対し、幻殃斉は木の根に腰かけ息をつく。
は荷物の中から水筒を取り出し、ぽいと幻殃斉に向かい投げ落す。
頭上からの思わぬ攻撃は本人には当たることなく、その足元にざくりと音を立てて突き刺さった。
幻殃斉はこれを引き抜き、栓を開けて水を飲む。が、途中でのものであったことを思い出し、顔を赤らめ奇声を上げながらそれを投げ捨てた。
その様子すらにはただの「遊び」の延長にしかないが、こんな他愛ないやり取りが無性に愛おしかった。もしかしたらそれ以外の何かもあるかもしれないが、腹を抱えて、笑うのを抑えながら幻殃斉を見る。
相手の方はというと、眉間に皺を寄せて頭上の女を睨んでいた。閉じた扇子でを指し、毎度のように声を荒げて語りだす。

「お、おい狐!!」
「残念ながらあたしの名前は物の怪でも化け狐でもないよ。ってんだ」
「おお、そうだったな。と…………じゃなくてなぁ!」
「あっはははは、わかってるよォ。水の礼ならいらないからねv」
「そうではない!そうではなくてその……なんだ……」

を指していた扇子をばっと開き、口元を隠して一呼吸。

「お前は物の怪の身でありながら何故、身共に塩を送るような真似をする」

視線を少し遠くへやりながら幻殃斉は尋ねる。正直な話、この男は物の怪とは人にとって害となるものだと思い込んでいる節がある。故にのような奇妙な事情を持ってした者については対処法が全くと言っていいほどわからないのだ。
ついでに言うと、幻殃斉は彼女とのこの「鬼ごっこ」でとの間に奇妙な絆を感じていた。
のらりくらりと自分の前に現れ、自分を翻弄し、しかし決して自分以外の他誰もには迷惑をかけない。
投げられた水筒の中に毒が入っているかもしれないというのに、そんなことを考えず中身を飲み干すくらい彼はを心のどこかで信用していた。
それこそ、最初に出会った時は老婆に対して追い剥ぎのようなことをしていたが、あれはやむを得ない事情があってのことで彼女自体はもしかしたらいい奴なんじゃないだろうかと思うようになってきていた。――まあ実際はその通り、ただ物の怪である山姥を退治していただけなのだが。
疑心の中にあるわずかな希望、彼女は潔白であるというささやかな願いが先の問いには詰まっていた。
対するは木の上で彼からの問いにどう答えるべきかを延々と考えていた。

(そりゃあ、面白いからに決まってるさね)

本心はそれだけだった。ただ戯れ遊ぶのが楽しいから。面白いから。それだけである。
だからこうやってからかっているわけだし、いつまでも終わらせたくないから捕まる気もない。それは出会った時から変らない彼女の紛れもない本心だった。
だが、そう答えてやったところで真の意味など考える間もなく怒るに決まってる、いや、何を言っても怒るのだろうとは思っていた。
仕方なしに用意した返事の中で一番反応が面白そうなものをは選んで答えた。

「だから言ってるぢゃんか。あんたが好きなんだって」
「だあああぁぁぁ!!五月蠅い、五月蠅い!そんな出鱈目聞くためにわざわざ……っ!」
「あはははは、幻ちゃん顔赤いよ、可愛いなァ」
「ぬあああぁぁぁぁ!捕まえる!絶っっっっ対に捕まえてやる!」

かすかな希望を物の見事に受け流され、怒りは頂点に達していた。顔は最早沸騰して煮え立ちそうなほど赤く赤くなっていたが、それを見てもは笑うばかり。
苛立ちが最早頂点を突き抜けて噴火しそうになったその時、は遠く山間に消えそうな太陽に気がついた。早めに下りなければ下手すると他の物の怪に幻殃斉が襲われる可能性がある。

「おっと、もう日が沈んじまうねェ。じゃ、今日はこの辺で。愛してるよー(笑)」
「だからふざけるなと……あああああああぁぁぁぁぁぁぁ、しまったあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

鬼火を纏い、どろんと――まさしくアヤカシらしいと感じさせるようには姿を消した。
山の中には残された幻殃斉の叫び声だけが、延々木霊していた。





「……っくぅ……なぜにあの狐、あれほどまでに易々と」

幻殃斉は薄暗くなった山道を、宿場町に向かいとぼとぼと歩いていた。
今日も獲物を逃してしまった狩人は、手土産一つないまま去っていく。

(それにしてもめ……)

ぶつぶつと呟きながら、幻殃斉は扇子で顔を覆っていた。
思い出していたのは先ほどの、彼女とのやりとりでの言葉。

『これでも結構好きなんだよ、幻ちゃんのこと』
『だから言ってるぢゃんか、あんたが好きなんだって』
『じゃ、今日はこの辺で。愛してるよー』

彼女の目映いばかりの笑顔と、優しい声、世間一般で言う美人であることに間違いはない。
たとえその言葉が自分をからかうために言っているのであったとしてもどうも小恥ずかしい。
それが普通の女子の言葉であったならどれだけ嬉しかった事だか。
また、言われていて嫌だとは思わない、寧ろ少しうれしいとまで思ってしまうそこが余計腹に立つ。

(別にあれは心から言っているわけではない!……そう、心からは……)

小言は山を下りるに従い次第に増えて、彼は自問自答を繰り返し続ける。
自分が彼女に対し、如何なる感情を抱いているのかもわからないまま、幻殃斉のしょぼくれた背中は山を下りたのであった。