覚えているかい? 私が君を知ったあの日を。 新曲ができずに煮詰まっていた時の事だった。 MZDに以前紹介してもらった小さなライブハウス。 「店を閉めた後なら好きに使っていい」と許可を取ったその場所で、 閉店したはずの店の中で、君のか細く消えてしまいそうな歌声を聴いた。 君は私に気付かなかったし、私も君の顔を見てはいなかった。 歌声に聞き惚れていて、その余韻に浸ってしまっていたせいだった。 気付いた時には君は帰っていたし、店から人気はなくなっていた。 だが、私は君のファンになったんだ。君の素晴らしい、その歌声の。 覚えているかい? 初めて君と話をした日を。 仕事のことでMZDの元を訪れた時の事だった。 他の二人と一緒に次の曲について話していた時、君がMZDを呼びに来た。 その時は君があの日の歌姫だとは知らなかった。 彼が席を外す間、私たちの雑談相手を任命された君は、 不思議と私たちの誰とも共通する話題を持っていて、 MZDが帰ってくる頃にはすっかり打ち解けて談笑していた。 君の明るく気さくなその笑顔が私の心に焼きついた。 覚えているかい? 初めて二人で出掛けた日を。 久し振りの暇な休日とスランプに悩んでいた事だった。 君が話してくれた紅茶の専門店を紹介してもらうためにと、 急な誘いだったのに快く承諾してくれたのを覚えているよ。 それなりに変装していった私を君は変だと笑っていた。 その後はぽつぽつ歩いて店に行き、スコーンのセットを頼み、 他愛ない話をしながらふたりでティータイムを堪能した。 君の声を聴いていると不思議と心が軽くなったんだ。 まだ、ほんの僅かに芽生えた感情が何かも知らずにいた。 覚えているかい? 君に気付いたあの日を。 あの店で働いていると言う君に会いに行った時の事だった。 もう一度あの日の歌姫に会えるのではないかと、 そんな期待を胸に、閉店した後に再度訪れた。 店に入って一番に耳にしたのが、あの日の歌声。 歌は違えど、その声は紛れもなくあの歌姫の声そのものだった。 緊張しながらホールへ向かえば楽しそうな君の姿。 モップを片手に上機嫌な君が歌っていた。 声をかける前に私に気付き、慌てて止めたその歌を 「続けてくれ」と強請った私に不思議そうに首を傾げていた。 君が私の歌姫だったのだと、想いが加速した。 覚えているかい? 君と結ばれたあの日を。 君への想いを隠しきれなくなった時の事だった。 出逢って1年、電話をかける回数も出掛ける回数も随分と増えた。 その日も暇を持て余してふたりでいつもの店に出掛けた。 紅茶を飲んで、ケーキを食べて、次の曲は如何しようかと相談し、 君と一緒に曲を作る、私の幸福な時間。 ずっとこうしている事は出来ないとわかっていても、 君が目の前で笑ってくれることが、君が共に歌ってくれることが、 君と共に育む時間が何よりも大切で愛おしいのだと知ってから 私はただ君だけが欲しくなってしまった。君だけが。 帰り道、抑えられなくなった想いを君に告げた。 君は信じられない、といった表情で私を見ていたが、 一息の後に微笑んで、頷いてくれた。 たとえ種族が違えども、乗り越えていこうと。 多くに迷いながら、多くを共にしようと約束したあの日。 私は君の人生を狂わせてしまったのかもしれない。 覚えているかい? 君と私が歩んだ日々を。 長く生きてきた私にとって、これほどまで大切な人は君が初めてだった。 人間と吸血鬼という、本来ならば相容れぬ存在でありながら、 君は私と共に短くも長い月日を歩んでくれた。 生活の違いにも、種族の違いにも、何一つ文句は言わず、 時折ささやかな喧嘩をして、互いの非を認めあって、 そうやって過ごしてきた。あまりにも平和で幸せな日々。 君が私を呼ぶ声が今も脳裏によみがえる。 「ユーリ」 こえが、声が聞きたい。 もう一度君の声が聞きたい。 君の笑い声を、怒った声を、泣き声を、歌声を。 あの日の歌声を、もう一度。 「――ユーリ。もう時間ダヨ」 暗い室内に灯が燈され、ゆっくりと、現実に引き戻される。 視界が潤んで、薄く膜が貼っているようだった。 ああ、また泣いていたか。 まだこんなものが残っていたのか、と息を吐く。 部屋の入口には友が立っていた。 私を痛々しそうに、つらそうに、赤い瞳が見つめていた。 「すぐ向かうよ」と言うと、彼は何かを言いたそうな顔で消える。 ――いい友人に恵まれた、と今更ながら思った。 私の前には一つの棺。 あの日から月日は流れ、私はいまだ変わらぬ姿。 君は老いて、今私の目の前で静かに眠っている。 噎せるような薔薇の香りの中で、表情一つ変えず。 私は知っていた。君がもう歌えないことを。 私は知っていた。君の人生の終わりが近かったことを。 私は知っていた。君はもう此処にいないことを。 私は知っていた。それでも君に此処にいてほしかったことを。 眠る瞼にキスをひとつ、落とす。 「行ってくるよ、」 一つの魔法、二つの呪い。唱えてはならないと知っていた。 君の瞼がゆっくりと、ゆっくりと開いて―― 「……」 物言わず、君が微笑む。それに私が微笑んで返す。 髪を撫でて、それから立ち上がり、部屋を出る。 灯りは消さない。君が目覚めている間は、消してはいけない。 かりそめの命。死人の肉体に、魂を縛り付ける呪い。 朽ち果てぬ体。時の流れでさえ壊せない、不変の呪い。 約束された死。術者の死と共に、対象を滅ぼす愛の魔法。 言葉はない、反応はできてもそこに本当の意味での感情はない。 ここにあるのは君であり君じゃない。 分かっていたけれど、それでも縋りつきたかった。 『何時の日か、きっと私が死ぬ日が来るだろう』 『どうか。その日まで待っていてほしい』 『私の命が枯れ果て、塵へ、灰へ、土へと還る時まで』 約束しよう。 |